リストマーク 天城湯ヶ島金山廃坑(2003年03月)

写真1:天城湯ヶ島町猫越口(ねっこくち)T字路全景


写真2:猫越口T字路を廃坑がある丘の上から俯瞰

 天城湯ヶ島金山廃坑は、伊豆修善寺の南、湯ヶ島温泉から猫越(ねっこ)川沿いに仁科方面へ向ったところにある。国土地理院発行の地図「湯ヶ島」では、猫越川と持越川との分岐点、猫越口という場所に「廃坑」の記号が記載されているので、わかりやすい。湯ヶ島温泉から県道59号を仁科峠方面へ向うと、猫越口T字路にさしかかる。T字路の突き当たりには、「中外鉱業株式会社持越工場」と「湯ヶ島高原倶楽部」の大きな看板が架かっている。向って右側に進めば仁科峠に出るが、左側は「この先行き止まり」の表示が出ており、通行は山間部で途切れているようだ。廃坑は、このT字路の向こう側にある小高い丘の上に位置している。道路の突き当たりに位置するので、ぼんやり運転していても良くわかる場所だ。

Google Maps上での位置は、下記の通り。
天城湯ヶ島金山廃坑


写真3:天城湯ヶ島町教育委員会制作の説明板


写真4:廃坑全景


写真5:湯ヶ島坑道


 この廃坑は、伊豆金山マニアの間でもかなり有名で、HP上でも数件掲載されている。道路には天城湯ヶ島町教育委員会制作の由来を示す説明板があるので、それを転記しておく。

 伊豆の金山(カナヤマ)
 豆州湯ヶ島村金山(カナヤマ)は、天正の頃より金銀が採掘された。二百枚、横沢、平山、宝木鉱(ホーキコン)、金沢(カナサワ)、岳(ハタガシラ)椎鉱(シイコー)の七坑よりなり、慶長二年(一五九七)大久保長安が伊豆の金山奉行に着任し最盛期を迎える。豆州志稿に「黄金多くことに上品也。諸々の職人、商人全国よりきそい集い、遊女御免を蒙り賑わしかりし事共なりとあり、今なお残る採掘に係わる地名に応じを忍ぶことができる。

 平成元年八月 天城湯ヶ島町教育委員会

 上記の説明文中にある「金山」「二百枚」「平山」の地名は、現在でも地図上で確認することができる。廃坑がある場所は「水抜」というところで、持越川と猫越(ねっこ)川とが合流する地点となる。道路上からは、中央に苔むした石垣と右手に廃屋が見え、かろうじてその昔鉱山があったことをほのめかしている。

写真6:湯ヶ島坑の看板


写真7:坑道から伸びるトロッコ軌道跡


写真8:湯ヶ島坑内部の排水パイプ


写真9:山の中腹にある管理棟跡


 道路から丘の上へ延びる歩道を登って行くと、突然ゲートボール場が現れて面食らう。昔工場があった場所は、現在ではゲートボール場として利用されているのだ。坑道は奥の山の斜面にある。鉄の門扉の内側には2本の巨大な排水管があり、ごうごうと水をくみ出している。坑道の上には錆びてぼろぼろになった看板がかかっており、「湯ヶ島坑」と書かれている。坑道からは、採掘物を運搬するためのトロッコの軌道跡が、かろうじて確認できた。

 坑道の上の山腹には、草叢の中に廃屋が建っていた。山の斜面が非常に急であることと、道らしいものが無いため、廃屋まで行くことはできなかったが、おそらく何らかの管理施設跡だと思われる。坑道の左側には、比較的新しいプレハブが建っていた。またゲートボール場の一角には、明らかに建物の跡と思える基礎が残されていた。HP上に掲載されている昔の写真を見ると、ここに今にも崩れ落ちそうな管理事務所が建っていたそうであるが、現在では影も形も無い。

 県道沿いの斜面には、廃屋とホッパー跡が残っている。いずれも蔦がからまり、建物の中は荒れ放題になっていた。県道沿いの斜面には、古い石垣と、おそらく電線を引き込むためのコンクリート製のブロックのみが残されていた。

 教育委員会の説明によれば、1590年頃の最盛期には全国からバイヤーが集まり賑わいを呈していた天城湯ヶ島金山も、今では川の流れる音が谷間にこだまする静かな村となっていた。

写真10:ホッパーとその作業棟廃墟


写真11:県道沿いにあるホッパーの跡


写真12:ホッパーと作業棟側面


写真13:国道沿いにある作業棟廃屋の入り口


写真14:作業棟の中


写真15:斜面に残る当時の石垣の跡




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