リストマーク 日窒鉱山(2003年04月) Page2

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写真22.斜面に点在する一戸建ての廃屋。ちょっと目には山の手の住宅地のような印象を受ける。戸建の廃屋は斜面に多く建っていた。


写真23.給食センターのある一帯を望む。川を隔てて正面には病院と消防署の跡が残っている。向って左側の奥には、赤岩文化会館という施設があるそうだ。この集落の奥には、公民館的に使用されていたと思われる丹岫寮が建っている。奥に見える山は赤岩峠。川を渡る鉄製の橋は、錆びて老朽化しているため侵入禁止である。


写真24.共同浴場付近にある古い社宅跡。二階建ての木造建築で、まるで古い温泉宿のような佇まいを見せる。この建物はかなり荒れ果てており、窓ガラスも所々割れていた。残されている社宅は新旧の差が激しい。これは事業場開設当時に建てられたものと思われる。


写真25.木造社宅の前に残る、変電トランスと電柱の跡。


写真26.赤岩文化会館と思われる建物(左)と、病院(右)。資源開発本部前に置かれている古い地図を頼りに想定している。何分、一切の表示が無いため、詳細は不明。画面左側に、写真23で示した鉄製の橋がある。


写真27.小倉沢にオーバーハングしたように建つ社宅の廃屋。今にも崩れ落ちてしまいそうな危うい状況になっている。しかし、ここまで川に接して建てなくても良さそうなものに。上側には幾分古い時代の社宅が見える。背後の山は赤岩峠方面。


写真28.給食センターのある集落の対面の岩に立つ社宅。これなどは、今でも使われていてもおかしくないものだ。かなりの高台に建っているので、登るのが大変だったと思われる。


写真29.給食センターや丹岫寮がある一角は、道路がS字型に大きくカーブして小倉沢を渡っている。この建物は、そのカーブの入り口にある工場施設。現在も使用されているらしい雰囲気はあるものの、かなり荒れ果てている。下の選鉱場へと通じている索道の一部が見える。後ろに見える道路は、八丁隨道へと通じている。


写真30.道を上がって行くと、ひときわ目立つ瀟洒な木造建築がある。事業所の地図によれば、これが丹岫寮と呼ばれている施設だそうだ。どのように利用されていたのかは不明であるが、建物の構造から公民館のような使われ方をしていたようにも思われる。逆光で若干見難い画像になってしまったが、側面などは複雑な構造をしていて、面白い。地図によれば、この建物の奥に給食センターや保育園があったようだ。


写真31.丹岫寮の正面。建物の前はかなり広い駐車場となっている。寮は一段高くなったところに建っており、正面からみるとなかなかの迫力だ。保存状態は比較的良い。筆者的には、この建物が今回一番気に入った。背後の山は赤岩峠。


写真32.丹岫寮の側面に設けられた玄関。扉は開け放しであった。つい最近まで使用されていたような雰囲気だ。


写真33.丹岫寮の正面。学校建築のようにも見える。窓ガラスはほとんどそのままの状態で残っている。奥には、正面の入り口が見える。


写真34.丹岫寮の正面入り口。建物前の通路は雑草が生い茂り、荒れ果てているのだが、窓にはカーテンがかかっている。ひょっとしてまだ使用されているのか。それとも、保存状態が極めて良いのか。


写真35.秩父事業所の外れに位置する珪砂工場。この施設は現在もまだ稼動しているものだ。丹岫寮のある一帯を過ぎると、この珪砂工場までは施設も無く、上り坂が続く。


写真36.珪砂工場前に放置された機器。リール、ワイヤー、変圧器などが無造作に放置されている。珪砂工場前には公衆トイレがある。日窒鉱山には、雁掛トンネルを出た入り口付近と、この珪砂工場の前にトイレが設置されている。ちょうど事業場の端と端にあたる場所だ。


写真37.八丁随道へ向う道沿いから見た珪砂工場。藪で良く見えないが、左側にベルトコンベアーが続いている。まだこの奥に施設があるようだ。珪砂工場は、小倉沢のすく近くに建っている。大雨の時など、大丈夫なのだろうか?


写真38.珪砂工場からさらに坂道を登ったところにあった、架空索道用モータ小屋。この設備がまだ使用されているのかどうかは不明だが、一見したところ放置されてからかなりの年月が経過しているように思えた。この施設から先は、山道が続く。事業場の一番外れといっても良いであろう。


写真39.架空索道小屋の中にあった施設設置認可証。この索道は、山の上にあるトゲノ沢上部貯鉱舎と、下部貯鉱舎とを結ぶものだったらしい。




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