東芝未来科学館フロアマップ
拡大

■東芝未来科学館 (2014/06/07)

 悪友Randy氏と共に、東芝未来科学館を見学に行く。

 東芝未来科学館は、JR川崎駅のすぐ近く、ラゾーナ川崎東芝ビルの2Fにある、2014年に改装したばかりの、新しい展示館だ。基本的に定休日は月曜日。但し例外もある。同館のHPはこちら。

 以前、本コラム「東芝アイスクリームフリーザー(2013/08/26)」で、同製品が東芝科学館に保管されていると記載した。そこが、このほど改装された東芝未来科学館である。以前より一度見学したいと思っていた所だ。入場料は無料。

 展示は、「ヒストリー・ゾーン」、「サイエンス・ゾーン」、「フューチャー・ゾーン」の3つから構成されている。筆者のようなオヤジ連中には、ヒストリー・ゾーンが一番面白い。  以下、ヒストリー・ゾーンの展示物をフォトレポートする。




東芝未来科学館の位置。

東芝の源流は、江戸時代の発明家、田中久重に溯る。同氏が作った引曳童子の複製。1838〜1853年頃の作品と言われている。4本の矢を自動的に弓につがえて、的めがけて放つという動作を、全てメカ制御で行っていたそうだ。

同じく田中久重の作品二点。左は「亀の盃台」で、1848〜1853年製造のもの。亀が、酒を入れた盃をヨタヨタと運ぶというもの。右は「童子盃台」の複製。盃台の上に盃を置くと、人形が客の方に向かって押して歩く。客が盃を取り、再び台に戻すと、今度はUターンして戻って来るという、とてもメカ仕掛けだけとは思えないような動作をするそうだ。

田中久重作の「懐中燭台」。1830〜1853年頃の作品。折り畳み式燭台である。田舎の蔵などには、まだ沢山現存している。

田中久重が和時計の製造に用いた工具入れ。今で言うところのスナップ・オンの工具入れといったところですな。

和時計や天球儀を製作する際に用いた工具の数々。こういうのを見ると、コーフンしてしまいますなぁ。

モールス電信装置。送り側は電鍵で、受け側は紙テープで行うという合理的なもの。

ブレゲ指字電信機の複製。明治初期、モールス電信機の前に使われていたもの。送信側装置を操作すると、受信側のベルが鳴り、これがセッション開始の合図となる。以降、送信側が指示した文字が受信側に指示される仕組み。当たり前であるが通信速度が遅いので、モールス電信機に置きかわってしまった。

田中久重が興した田中製造所で製作された電話機の複製。明治初期から中期にかけてのもの。田中久重の工場では、1878年(明治11年)に2台の電話機が製造されている。主として銀座の店舗に取り付けられて大ヒットした作品だそうだ。

田中製造所の電話機の銘板。「大日本東京新橋」の表示が誇らしい。シリアルNo.は52番。

明治時代の電気工学者、藤岡市助が誌した日本国最初の電気技術書と言われている「電信小誌」。

左は1880年頃のエジソン電球の複製品。右は京都・石清水八幡宮の竹を使用した竹ひご。エジソン電球の複製時、カーボンフィラメント製作に使用したもの。

電球各種。左は国産初の炭素電球。藤岡市助が創業した白熱舎製。1890年頃の製品。中央は藤岡家から寄贈された電球の数々。大正4〜10年頃の製品。左は初期の炭素電球の複製品。

工部大学校と藤岡市助の白熱舎、三吉工場の位置関係。
拡大

東京電灯第一電灯局内部の様子。

国産初の200kW大型発電機。

東京芝浦電気株式会社の「マツダランプ」。

「マツダランプ」のホーロー看板。今でも地方へ行くと時々見かけることがある。

日本初の白熱電球の複製。
「明治17年(1884年)、エジソンから電気器具の国産化を助言された藤岡市助は、白熱電球の製造を決意し、同郷の三吉正一と共に白熱舎を創立、苦心の末に竹フィラメントの炭素電球を日本で初めて製造しました。」

炭素電球(チップレス)
「初期の白熱電球には排気のためガラスバルブの突端にチップと称した鋭く尖った部分があり、これにより電球破損の原因や怪我をするなどの不都合がありました。このチップをなくす研究を進め、大正14年(1925年)にチップレスの電球製造に成功しました。」

電球と扇風機の融合。斬新なデザインは、現代でも充分通用するのではなかろうか?

油入開閉器(明治40年:1907年)
「王子製紙苫小牧工場に納入され昭和35年(1960年)まで活躍しました。タンクの設計図にはアメリカ松を使用すること、在寮ハ充分乾燥シタル上ニンシード油ニテ四十八時間煮。摂氏七十度位ニテ乾燥スル事、水張りシタル径1/8麻縄ニテ巻くク事(外周の締め付け方法)、外部ラック塗リノ事などの指定がなされています。電流の遮断原理は、油の中で接点を切り離す単純なものでした。」

日本初の単相積算電力計(大正4年:1915年)
「明治43年(1910年)、家庭用電灯の普及に伴い点灯料金の公平を期すため、料金制度を定額制から従量制に改める電気測定法が公布されました。米国GE社からの技術導入により国産初の単相二線式積算電力計I-14型の型式承認を取得しました。」

日本初のX線管
「日本に医療用X線装置が普及しつつあった頃、第一次世界大戦が勃発し、輸入に頼っていたX線管球の入手がほとんど不可能になりました。そこで東京電気は国産化研究に着手し、電球製造で培った真空技術や管球技術を駆使して大正4年(1915年)に純国産第一号を完成させました。製品名であるギバX線(レントゲン)管球のギバは、古代インドの名医の名に由来します。」

これは何だったか失念してしまいました。

ラジオ用送信管 UV-204(大正8年:1919年)
「大正14年(1925年)3月東京放送局仮放送所から、日本初のラジオ放送が開始しました。その仮放送所で使用された放送機器システムの出力管4本のうちの1本です。」

世界初の二重コイル電球(大正10年:1921年)
「三浦順一は単コイルフィラメントをもう一度コイルに巻いた二重コイルフィラメント電球を発明しました。これによりガスによる熱損失を低減し、電球の効率を一段と高めることができました。」

ラジオ受信機(大正14年:1925年)
「東京でラジオ放送がはじまると、早速、東京電気はラジオ受信機(サイモホン)を発売し、芝浦製作所もラジオ受信機(ジュノラ)の製作を開始しました。」

ラジオスピーカー(大正14年:1925年)
「芝浦製作所が製造した、ラジオ受信機ジュノラスーパーヘテロダインのスピーカーです。大正15年(1926年)3月に、電気大博覧会(開催は大阪市)で銀牌を受領しました。」

真空管式ラジオ受信機 JUNOLA VA (大正14年:1925年)
「このラジオ受信機は、ジュノラTA、ジュノラUAの受信機をまとめてコンパクトに設計したものです。」

JUNOLA VAの回路図。

鉄羽根の扇風機。筆者の倉庫にあるものと同型の物。

日本初の電気洗濯機。米国ソアー社からの技術導入により製作された。昭和27年までの間は、日本で国産唯一の電気洗濯機として用いられていた。

極初期の冷蔵庫。

日本初の電気掃除機 VC-A
「米国GE社の真空掃除機をモデルに、初めて国産化して注目を集めました。当時のものはVC-A型と称し、吸いこみ口にブラシを取り付け、走行車輪付きの長い柄を持って掃除するアップライト型を採用しました。消費電力は60W程度の小型です。当時の価格は110円でした。」
この掃除機は現在も実動可能で、係の人がたまにやって来ては、見物客に掃除機の動作を見せていた。

マツダ電気蓄音機オリオン(昭和8年:1933年)
「このオリオン800号は、ラジオと電気蓄音機併用の高級セットで、当時の新機軸製品でした。」

ラジオ放送用大電力送信管 UV-171(昭和9年:1934年)
「東京電気の実験室で研究を開始して3年後、入力30Wのブリイオトロン試作が完成し、逓信省電気試験所の納入したのが、日本初の送信管です。その後、昭和9年(1934年)に、身の丈もある世界最大級のラジオ送信管UV-171が完成しました。」

ラジオ放送用大電力送信管 UV-171の内部構造。

日本初の蛍光灯スタンド。
昭和15年(1940年)の製造。

詳細不明のGT管。

アイコノスコープ。
昭和20年(1945年)製造。

洗濯機 P型(昭和27年:1952年)
「昭和25年(1950年)頃、大型撹拌式洗濯機を発売し、昭和27年(1952年)には小型免税型(P型)を発売して好評を得ました。当時の価格は2万8000円でした。」

トースター TT-1(昭和27年:1952年)。
「大正4年(1915年)からトースターなどの製造を開始しましたが、昭和16年(1941年)には戦争のため製造を中止しました。戦後は進駐軍向けから製造を再開しました。展示してある製品は、ターンオーバー式のトースターです。」

日本初のイメージオルシコン 5820(昭和28年:1953年)。
「3インチの撮像管です。輸入品と比較しても長寿命で、鮮明な画像の再現は世界の水準を抜くと、各界からの注目を浴びました。」

白黒テレビ 73A型(昭和28年:1953年)
「昭和3年(1928年)から研究に着手し、昭和23年(1948年)に大阪の腹腔大博覧会で公開実験を行いました。昭和28年(1953年)には、NHKの放送開始に備え、7型、12型、14型、17型テレビ受像機を生産し始めました。」

計数形電気計算機 TAC(昭和29年:1954年)の外観。
拡大

TAC側面のスイッチ配電盤。

TACに使用されている真空管群。
拡大

TACに使用されているブラウン管メモリの動作原理を示したパネル。
拡大

TACの説明プレート。
拡大

TACの基板。ブラウン管メモリ部分。
拡大

TACのブラウン管メモリ搭載部分。筒の中に入っている。
拡大

TACの回路部品。
拡大

TACに搭載された真空管群。
拡大

手動式計算機 20-TB(昭和34年:1959年製造)。
「昭和25年(1950年)に20桁の手動式計算機の試作機を完成し、その後十進装置・連乗装置を追加しました。ワンハンド操作を採用した乗除算の自動切換・自動早送り・チェックダイアルを装備し、東芝計算機の商品名で発売しました。」

ゆで卵器 BC-301(左)と、日本初の自動式電気釜(右)
「古くから私たちの食生活になじみ深いゆで卵が、面倒な時間設定や温度管理をせず簡単につくれる器具として発売しました。(昭和34年:1959年製造)」

「昭和30年(1955年)の神武景気で家庭電化ブームが到来し、間接三重構造とバイメタルの併用で合理的な垂範を実現した自動式電気釜は、空前のヒット商品となりました。これにより主婦の家事労働にかかる時間を大幅に減らし、生活様式にも変化をもたらせました。(昭和30年:1955年製造)」

やぐら式こたつ(昭和30年代)
「昭和32年(1957年)に、他社に先駈けてやぐら式こたつを発表すると、その便利さが認められてヒット商品になりました。展示品は使用されている素材から、初期の製品と推定されます。」

自動反転噴流式洗濯機 VQ-3(昭和32年:1957年)。
「パルセーター(回転翼)を採用し、洗濯量が少なくても経済的に使用できるよう改良されました。昭和40年(1965年)には普及率40%を達成し、白物家電の定着に貢献した製品です。」

「トランジスタラジオ 6TR-127(昭和32年:1957年)。
昭和29年(1954年)頃から特注品や試作品のトランジスタラジオを製造し、昭和32年(1957年)に量産化1号機として6TR-127型を発売しました。それ以前のラジオはマツダの名を冠してマツダラジオと呼ばれていました。」

冷蔵庫 GR-820(昭和32年:1957年)。
「冷蔵庫、洗濯機、テレビは、三種の神器として主婦の憧れの的でした。冷蔵庫の扉内側にはポケットが設けられ、利便性が高められています。」

14インチ白黒テレビ 14EK(昭和33年:1958年)。
「テレビ普及のスピードが加速され、デザイン、性能、品質の面でトップの評判を受け、市場で大好評を得た製品です。」

日本初の電子レンジ(昭和31年:1956年製造)。

日本初の電子レンジの操作部。どのような意味なのか不明だが、左・両方・右というダイアルが付いている。謎だ・・・

日本初の3インチカラーTV用撮像管 7513(昭和35年:1960年製造)。
「カラーテレビの本放送は昭和35年(1960年)9月に開始されました。この管は、その心臓部ともいうべき、国産初のカラーテレビ用イメージオルシコンです。」

日本初のカラーテレビ(昭和35年:1960年製造)。
「昭和35年(1960年)のカラーテレビ本放送開始に先がけ、昭和32年(1957年)に日本初のNTSC方式21型カラーテレビ受像機を公開しました。昭和34年(1959年)には17型角形受像管を使用した純国産化カラー受像機を完成し、国際見本市に出品しました。」

日本初のカラーテレビのチャンネルダイヤル。
テレビのチャンネルを回すという表現は、ここから来ているのだ。

日本初のカラーテレビに付いているオーナメント。

日本初のマイクロプログラミング方式コンピュータ(昭和36年:1961年製造)。
TOSBAC-3400の原型とされるモデル。

日本初のマイクロプログラミング方式コンピュータ前面の端子群。
コンピュータ前面上部には、正方形の枠が3つ設けられており、中は無数の端子が突き出ている。これをどのように使ったのかは、今一つ想像ができない。レバーのようなものが付いていることから、何らかの基板を押し付けるようにして、この部分に嵌めこんだのではないかと推測される。

端子群のアップ。
外観を見る限り、接点のようなものだと思われる。

日本初のマイクロプログラミング方式コンピュータの内部。
内部は配線がスパゲッティ状態になっていた。デバッグするのがさぞかし大変だったであろう。

日本初のマイクロプログラミング方式コンピュータの内部。
職人技である。配線を理解している人間は、おそらく班長さんくらいでは無かったであろうか?

日本初のマイクロプログラミング方式コンピュータ内部。
コンピュータは巨大なラックにマウントされているのだが、その内部には用途不明の装置があった。一見ライトのように見えるのだが、フィラメントが無く、ただの反射鏡のようにも思える。膨大な熱を反射するための装置なのだろうか?詳細は不明。

一見乱雑なように見えて、規則性がある。職人芸である。

日本初のマイクロプログラミング方式コンピュータ基板。
メサ型トランジスタ群。

マイクロプログラミング方式コンピュータの説明パネル。

カラーテレビ 16WR(昭和39年:1964年製造)。
当時の価格は17万5000円だったとのこと。

電子式卓上計算機 BC-1001(昭和40年:1965年製造)
「当社製電卓の量産化1号機トスカル(重量18kg)です。最初の機種は10桁表示式で、回路は全てトランジスタです。ダイオードが主流で部品も数千点に及ぶ大きなものでした。当時の価格は36万円でした。」

トスカルの表示部分
0〜9までの数字が、細かいドットの点灯で表示されるようになっている。

オリンピックTRラジオ 6P-64(昭和39年:1964年)
「昭和39年(1964年)に開催された東京オリンピックは、まさに高度経済成長の象徴でした。」

家庭用電子レンジ ER-501S(昭和44年:1969年)。
「電波で新しい味、すばやく楽しいホームクッキング、をキャッチフレーズに、初めて家庭用電子レンジが登場しました。」

ヘリカルスキャン方式統一T型VTR(昭和46年:1971年)
「斜め回転ヘッドで記録するヘリカルスキャン方式を用いた民生用VTRとして、標準化されたオープンリールの統一T型VTRを商品化しました。このヘリカルスキャン方式は、その後、カセット化されたβ方式、VHS方式の家庭用ビデオにも採用され、世界で数億台のVTRに使われ、放送用もすべて同方式が使われました。」

ヘリカルスキャン方式統一T型VTRのテープロード方法。

世界初のVコードVTR KV-3000(昭和49年:1974年)
「昭和49年(1974年)9月に発売された世界初の1/2インチカセット式VTR(三洋電機と共同開発)で、記録時間は30分と1時間の2スピードです。この機種によって、家庭用VTR事業がスタートを切りました。当時の価格は32万5000円でした。」

世界初のテレビ受像機用SAWデバイス(昭和52年:1977年)
「SAWデバイスの心臓部となるタンタル酸リチウム単結晶の育成や加工技術、電極設計技術などを確立し、世界に先駈けてテレビ受像機用SAWフィルターの量産化に成功しました。その後もSAWフィルターの革新を進め、現在では携帯電話のキー部品となっています。」

ワードプロセッサー JW-10。


<< Menu Page



Copyright (C) Studio Pooh & Catty
1996-2014