イリューシンIL-62の緊急事態対応パンフレット(表面)
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■イリューシンIL-62 (2008/08/25)

 またもや押入を片付けていたら、珍しいものが出てきた。1986年に中国を訪問した際、広州→北京の国内線で手に入れたイリューシンIL-62の緊急事態対応用パンフレットである。当時、筆者は広州から北京まで、このソ連製旅客機で移動した。機内の片隅に、このパンフレットの予備が山積みされていたので、客実乗務員(当時は服務員といった方がふさわしいかな?)の許可を得て、記念に持ち帰ってきたものだ。イリューシンIL-62については、ここに詳細が掲載されているのでご参考に。現在はほとんどが引退しているようで、今でも使用しているのはロシア、朝鮮民主主義人民共和国の高麗航空、キューバのクバーナ航空程度だとのこと。

 さて、1986年3月にイリューシンで中国国内を移動した時のことについて少々。この時は、今考えると恐ろしいほど行き当たりばったりの旅行だったので、当然フライトの予約などは行っていなかった。とりあえず広州空港へ行き、チケット売り場で航空券を入手したのだが、まずこのチケットの購入からして、相当すさまじかった。普通、チケットカウンターでは、窓口に対して直線状に列を成して並ぶのが常識的というものであるが、ここでは人が窓口の周りに扇形に群がっているのである。即ち、行列という概念が無く、我先にと窓口へ殺到している状況を思い浮かべて頂ければ良い。押し合いへし合いしながら、やっとの思いで辿り着いた窓口で、大声で行き先を告げ、料金を支払ったことを、今でも鮮明に覚えている。断っておくが、以上の状況は、1986年当時のことである。もちろん、現在はこのようなことは無いであろう。。。

 チケットを購入しチェックインしたのは良いが、当日の広州空港は雷雨であった。空は真っ黒でカミナリが轟き、雨は土砂降り。この気象状況でホントウに飛ぶんだろうか?と真剣に心配したのであるが、予定通りのフライトだと言う。出発は午後6時。CAAC(中国民航)に命を預けるつもりで、雷雨の中、タラップを登り機上の人となる。

 心配されたフライトであるが、一旦上空まで上がってしまうと、後は極めて快適だった。どこまでも広がる雲海の向こうに、夕日をバックに雪をいだいた山脈が見えるという絶景をも楽しむことができたというオマケ付き。また、この時のパイロットは大変に優れた腕の持ち主で、機体の揺れもほとんど無い。中文とロシア語を併記した表示が至るところに見受けられる機内も、なかなか経験できることでは無い。こうして何事も無く、機は深夜の北京空港へ降り立ったのであった。イリューシンIL-62は、現在でも北京→平壌間で運行されているようであるが、もしも機会があったなら、また乗ってみたい旅客機である。共産圏の匂いがプンプンするレトロな外観は、何物にも代え難い魅力があるからなぁ。。。

イリューシンIL-62の緊急事態対応パンフレット(裏面)
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広州→北京間のフライトチケット。全4ページの冊子になっている。全てのページをご覧になりたい方は、下記のPDFファイルをご参考に。
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 ついでなので、この時の中国旅行について触れておこう。スケジュールであるが、1986年3月18日の深夜に香港到着。予約しておいたホテルに一泊する間に、中国の入国ビザを旅行会社の人に代行申請してもらう。翌3月19日に、香港からシンセンへ電車で移動。シンセンの国境にかかる橋を徒歩で渡り、中国国内に入る。シンセン駅で広州行きの列車に乗車。その日の夕刻に広州到着。予約しておいた駅前のホテルに宿泊する。3月20日、広州市内を見学した後、夕刻広州空港から北京へイッキに移動。北京空港に深夜到着し、タクシーの運ちゃんにどっか空いてるホテルを探してもらうが、なかなか見あたらず。4〜5件目でようやく華僑大廈の一室を見つけることができた。

 以後、約10日間に渡り北京市内や郊外の観光名所を訪問したが、一番タイヘンだったのは宿の確保である。初日に宿泊した華僑大廈は、翌日には満室とのことで追い出され、中国国際旅行社で紹介された永定門に近い旅館に移ったのであるが、ここがまた安かろう悪かろうのとんでもないドミトリー。北京の3月は寒いのに、シャワーでお湯が出ないというのが辛い。まるで罰ゲームだ。ここに数泊した後、北方交通大学の知人の紹介で、地安門に近い竹園飯店という、それはそれは立派なホテルに滞在することができた。。。とまあ、こんな感じであった。若かったからできた旅行であるが、今となっては、もうこんなことは無理だな。。。

1986年3月19日のシンセン駅(中国領内)。今では超高層ビルが林立する、すさまじい都市に変貌してしまったが、当時はこのような長閑で小さな駅だった。画面中央の階段が、駅構内の改札に通じている。駅周辺には貧しい子供達が大勢群がっており、小銭をねだる。外国人だと見ると、どこまでもどこまでもまとわりついてくる。1986年のシンセンは、このような状況であった。

1986年3月19日、シンセン駅(中国領内)のプラットホームに停車中の、北京行き特急電車「第90次特軟」。出発は午後1時55分となっていた。

北京行き特急電車「第90次特軟」の乗車券。硬券である。「特軟」とは、確か特急の一等車輌の意味だったかな。料金は15.10元。切符裏面を良く見ると、「外貨兌換券」で購入したことが記載されている。

1985年中国鉄道出版社発行の時刻表より。これを見ると、第90時特軟は、シンセンを12時35分に出発するように記載されている。発行が1年前なので、その後ダイヤ改正されたものと思われる。

列車は夕刻に広州駅に到着した。シンセンから広州まで、約147kmの行程であったが、ものすごく時間がかかったように感じた。時刻表では2時間23分の旅となっている。時刻表通りに運行したとしても、平均時速は61km/hに過ぎない・・・

広州駅前のホテル「流花飯店」の正面玄関にて撮影。正面に見えるのが広州駅。1986年3月20日の朝である。玄関前に屯している人は、ほとんどが外国人目当ての両替屋。当時中国では外貨兌換券と人民元との二通りの通貨が流通しており、兌換券でしか購入できないモノもあった。そこで、同額プラスαで人民元に交換をせがむ人たちが沢山いたものだ。交換レートが良いからといって、いい気になって全額人民元にしてしまうと、出国の際、円に両替できず痛い目に遭う。「地球の歩き方」では常識の注意事項だ。

当時の兌換券(一角)。中国では兌換元は1979年に導入され1995年に廃止された。現在ではオークションで結構プレミアムが付いていると言われているが、ホントかな?

こちらが、一般人民が当時使っていた人民元(一角)。兌換元では裏面に英語の表記があるが、人民元には無い。

1986年3月20日午後4時、広州空港チェックインカウンターにて撮影。チケットをゲットし、これから登場手続きをしようとする人でロビーはごった返している。手荷物預かりカウンターには、昔の銭湯に置いてあった「体重計」のお化けみたいな、巨大な秤が設置されていて、結構な迫力だった。

深夜到着した北京で、ようやくありつけた華僑大廈の部屋。4〜5件空き部屋を探し求めて宿から宿へと移動したため、日付けが1986年3月21日に変わってしまっている。まあしかし、今考えると良く見つかったものだ。最悪、駅構内で雑魚寝の可能性もあったが、3月の北京の夜は、まだまだ寒い。もしそうなったら、とても耐えられなかったであろう。

1986年3月21日、初めて超混雑のトロリーバスに乗車する。運転席横の場所を確保し、立ちん坊のまま必死の思いで一枚撮影。北京市内の華僑大廈から、郊外の永定門へ向かう途中である。車内は山手線並みの混雑で、ほとんど身動きができない。北京でのバス移動は、毎回こんな調子であった。最初はかなりの苦痛を強いられたが、帰国する頃にはすっかり慣れてしまうのが、人間の恐ろしいところである。

前門前の広場に駐車する2連結のバス。なにぶん人が多いので、輸送量も確保しなくてはならず、このように2連結の大型バスがメインとなっていた。これだけの大きさを確保していながら、バスは常に超満員の状態で走っている。バスもデカイが、乗る人間も多いということだ。

 ついでにもう一つ。北京滞在中に、北京市周辺の名所・旧跡を訪ねる観光バスに乗ることにした。前門広場には沢山の屋台のチケット屋が出店しており、適当なところを見つけて、一日五遊という一般的なコースの予約を取る。この会社では、料金は確か5元程度だったと記憶している。五遊とは「長城、長陵、定陵、水庫、神路」の五カ所を示しているのだが、もう昔のことなので、万里の長城以外はどこを回ったのか記憶に定かでは無い。

 ところで、最初に予約した会社では、1986年3月22日午前7時に前門の前に集合ということになっていたのだが、あろうことか当日寝坊してしまい、前門に到着した時は既にバスは出た後であった。仕方ないので、異なるチケット屋で観光バスの予約をする。こちらは前と違ってちょっと高級そうなチケットであり、値段も8元と3元ほど高かった。

 今度は寝坊すること無く時間通りに集合場所に出向いたのであるが、バスを見て驚いたのなんの・・・「これで一日中引き回されるのか?」と思うと、鬱で死にたくなってしまうくらいの、使い古しのおんぼろバスなのである。どう見ても外国人観光客用では無い。従って、乗客の中で筆者の浮いていたことといったら・・・さらにこのバス、どうやら日本の「沖縄交通」が使っていたワンマンバスの払い下げ品のようであり、座席の横には「つぎ降ります」というボタンまで付いているではないか?シートはほつれ、ゴミやホコリが堆積した木張りの床はミシミシと軋み、ヤレたサスペンションは悪路と相まってすさまじい乗り心地だったのだが、なぜか大変楽しかった(いわゆる「ナチュラル・ハイって奴でつか?)。

 観光名所に来ると、運転手さんは集合時間を言ってドアを開ける。筆者には中国語が通じないので、腕時計を指で差し示して、「何時までに戻ってこい!間に合わなければおいてくぞ!!」と指示する。こうして日がな一日、バスにゆられてあちこちと観光したのであるが、意外にも効率的なコースではあった。途中、ドライブイン(と思われる場所)にも寄ったのであるが、この時の経験はすさまじい。あまりにもすさまじかったので、今回は敢えて記載しないことにしよう。うん、そうしよう。想像を絶するとは、まさにこのことである。後日気が向いたら、当時の「ドライブイン」について書こうと考えている。

最初に購入した観光バスのチケット。料金は5元程度だったと思う。このバスには寝坊して乗れなかった・・・

前回寝坊で痛い目にあったため、再度リベンジのため購入した観光バスのチケット。こちらはチケットの方も前回より高級そうで、料金も8元と高かった。のであるが・・・

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